「今の時代には倫理のようなものが必要だ、そしてその倫理性というのは身体性を基盤にしたものでなくてはならない*1」(ブルータス・1999年/No.433「肉体が変われば、文体も変わる」インタビューより)

このインタビューから八年後の世界において、ぼくらが拠りどころにすべき"身体性を基盤にした倫理性"とはなんでしょう。
政治はもちろんダメ、経済もダメ、カルチャーもダメ・・・、でもスポーツの世界には、ある程度の倫理が保たれてる/もしくは保つべきだと感じている人は、かなり多いんじゃないでしょうか。
スポーツビジネスがどれほど発達しても、根底に「スポーツマンシップ」という名の、無敵の倫理性が担保されてると、たいていの人は信じているし、なんとかファンドとかなんちゃら大臣とかなんちゃら次官が稼いだカネは全面的に不埒だけど、メジャーリーガーが稼ぐカネなら、どれほど莫大になっても許容されますよね。
これに倣って、個人の倫理が各々の身体性を拠りどころにして保たれるという考え方には、ぼくもおおむね賛成。アタマだけでなく、カラダ・・・くちびるとか中指とか脇腹とかヒップとか・・・も使って弾き出した倫理観なら、すごくチャーミングだと思う。でも社会全体で共有すべき倫理性が、身体性へと安易にすり寄るなら、たとえば徴兵制のような考え方に繋がっていくような気がして、すこし怖いんですけど飛躍しすぎでしょーか?

*1:厳密には、1995年11月に行われた対談をまとめた「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」からの引用です。