久しぶりに三桁以上の古書を購入しまして・・・といっても千円ですが。串田孫一の「考えることについて」(光の友社・スピカ叢書)。昭和30年発行の、いわゆる初版本。ノンクレジットながら素晴らしい装丁。ところどころ裁断されてないページがあって(週刊誌の袋とじを想像してください)、ぼくの手元に来るまで誰にも読まれてなかったようです。
買ったばかりで、まだ読んでる途中なんですが、本の内容とリンクするような出来事がさっそくありました。先日、鎌倉で撮影した写真をブログに載っけましたよね。それを見た友だちが、こんなメールをくれたのです。

タンポポのまわりの水色のちっちゃい花、久しぶりに見ました。なんだかとってもなつかしい気がします。子どもの頃はよく見ていたような」

すごくビックリしました。まさかあの写真を見て、タンポポの周りに咲く小さな花に注目する人がいるなんて、思いもしなかったことだったから。しかもその友人は、タンポポにも乙女椿にも満開の桜にもそのメールではまったく触れてなかったんです。なんだか妙に感動してしまいました。

その感動をうまく自分の中で言葉にできないでいたのですが、今日、くだんの本を読んでるときに、こんな文章と出会ったのです。

同じ人間の目を以て一つのものを見ながら、その注意の向け方で、物はいろいろに見えるばかりでなく、うっかりしているために、私たちはどれくらい貴いものを見損なっているか、また目の前には常に発見されるべきものが沢山あることを、改めて思わずにはいられないのです。

見れば何でもよく見える眼を持ちながら、必要なものと不必要なものとをあっさり見分けをつけて、見ても仕方のないもの、見たところで一文にもならないものは見ずに済ますことが恰も賢明であるように思いこんでしまうことは、実は非常に愚かなことではないかと思います。

年齢を重ね、すべて見られる/手に入る/理解っている、と思いこむことの愚かさ、つまらなさ。生きるほどに見えなくなるものがあり、聞こえなくなる音がある(無論、逆もまた真なり)。孫一さんの言葉を借りれば「単に眺めているだけの時は、人の眼は小さな曇った鏡にすぎない」のです。
自分がまだ新品の人間だったときのように、ときどきしっかり磨いておきたいですね。