水曜日、二件の約束の合間にちょうど時間があったので、映画を見てきました。
ポール・トーマス・アンダーソンの新作「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」@シネアミューズCQ
お気に入りの監督が撮った作品なら、なんの留保もなく、アタマから「せーの」で浸ることができます。今回「ゼア・ウィル〜」の上映館を調べたとき、都内でわずか三軒の映画館しか上映されてないという事実には少々驚いたけれど、多くの映画ファン同様、ぼくにとってもP.T.A印というのは、きわめて安心感のあるブランド。全米公開から一年以上経過してるにもかかわらず、公式サイトも、雑誌やネット上のレビューもほぼ見ていませんでした。雑誌や新聞の三行解説風に書けば、20世紀初頭のアメリカで石油採掘に全精力を傾けた男と彼を取り巻くさまざまな人間の織りなす大河ドラマアメリカ、石油、宗教と・・・落語の三題噺のようなテーマが設定されてることで、ある種の現代諷刺にも繋がるような映画かと思いきや、予想は良い意味で裏切られました。
三時間近い上映時間のあいだ中、ぼくが囚われていたのはひとことで云うと、五年という長い空白期間を経て、なぜP.T.A.がこのような映画を作ろうとしたんだろう? という根本的な疑問に尽きます。
たとえばデイヴィッド・リンチの作品が難解であっても、ぼくはそれをごく自然に受け止められるし、なぜ彼はこんな映画を? なんて理解に苦しんだことは一度とてありません。たぶんそれはリンチなら、理屈抜きでその作品や、リンチという映像作家の考え方、嗜好を飲み込んでしまえるからだと思うのです。あえてアホっぽく書けば「だってリンチはそういうキャラだから」ってとこです。
しかし、この映画を見ているあいだ、ぼくは何度もその世界に、物語に、登場するキャラクターに、果ては美術や音楽のなかに隙間を見つけて、なんとか擦りよろうと、一体になろうと努力しました。けれど、その都度キョーレツな力でハネかえされ、押し返され、殴られ、蹴飛ばされ、アタマをハタかれ、全身全霊で拒絶されたような気がしたのです。*1
今までどれだけ他人に酷評されようとも、ぼくは常に彼の作品にはとても親密な感情を抱いていたし、実際に年齢も近く、同世代の優れたクリエイターとして敬愛・・・というより、友情に近い(一方的な)気持ちを抱いていたので、見終わってから、少なからず呆然としてしまいました。
作品ごとにスタッフやキャストをガラリと変える映画作家がいる一方、P.T.A.はデビュー以来、ある種の疑似家族的な体制によってキャリアを積みあげてきたわけで、こうした変節にはなにかしら大きな心境の変化があったと思われます。
まず、この映画にはいわゆるP.T.A.組と呼ばれてきた常連俳優たち(フィリップ・シーモア・ホフマンフィリップ・ベイカー・ホールジョン・C・ライリーウィリアム・H・メイシー、etc.)が誰一人として出演してません(正確に云うと"させてない"わけですけど)。俳優だけでなく、音楽担当もいままでの全作品で組んでいたJon Brionではなく、レディオヘッドJonny Greenwood が担当しています。
パンフレットやインタビュー記事などもまったく目を通してないので、彼がこのような変節について、なにを述べているのかわからないんですが、この五年間、いわゆるハリウッド的なゴシップとして報じられてきたこと・・・長年の恋人だったフィオナ・アップルとの別離、そして新しいパートナーであるマーヤ・ルドルフ(アルトマンの「今宵、フィッツジェラルド劇場で」で進行係を演じていた大きなおなかの女性)との間に子供が誕生し、父親になったことなどは、あきらかに彼の変節へ影響を与えたことでしょう。また、P.T.A.は有名なテレビ司会者/俳優でもあった父親を、デビュー作の完成直後に亡くしていますが、昨年、映画作りにおいて父親的な存在だったロバート・アルトマンを彼は遺作となった作品の現場に立ち会うことで看取りました。
やはりティム・バートンが父親になって初めて撮った映画「ビッグ・フィッシュ」にも似たような"変節"感がありました。あの映画に登場する父と息子もまた、互いの生き方に対して強烈な反発があり、それが映画自体の軸になっています。
「ゼア・ウィル〜」では「ビッグ・フィッシュ」よりもはるかに複雑でシリアスな親子の対立が描かれていますし、それだけにとどまらず、社会、家族、経済活動、イデオロギー、信仰など、さまざまな対立項が浮かび上がり、それを集約したキーワードこそタイトルにもある「血」。現代社会の血である石油、人間の潤滑油である血、そしてキリスト教における父子関係や血についての概念は、不勉強なぼくが偉そうに語るわけにはいきませんが、父(実の父親/イエス)と子の断絶、不協和、対立という概念は通底音として、全シーンにわたって響きわたります。

「父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下、などに分類し、母性がすべての子どもを平等に扱うのに対して、子どもを能力や個性に応じて類別する。(中略)強いものをつくりあげていく建設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破壊に至る面と両面をそなえている」河合隼雄

*1:まあ、この映画を観た人ならご理解いただけると思いますが、その"断絶""拒絶""破壊"の象徴こそ、ダニエル・デイ・ルイスの演じた主人公ダニエル・プレインヴュー。