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向田邦子が台湾で客死してから、今年で二十七年になる。正確には1981年8月22日、つまり明後日が命日だ。つい先日、山口瞳のエッセイ集・・・・・・週刊新潮で約三十年間にわたって長期連載していた「男性自身」のなかから、重松清と嵐山光三郎がそれぞれ選りぬきした文庫本を古書店で購入し、すっかり彼の語り口に嵌ってしまったのだが、かつては何冊も出ていたはずの、この「男性自身」シリーズは現在ことごとく絶版。仕方がないので図書館のお世話になっている。手始めに読んだのは「木槿の花」だった。
ごぞんじのように、この「木槿の花」は、テレビ界で活躍していた向田女史を、文学のテリトリーに引き込んだ(と自負する)山口瞳が連作で書きつづった、彼女への追悼文がまとめて収録されている。かの久世光彦が文庫版の解説として、死者の袖を山口瞳とひっぱりあうような、じつに激しく生々しい文章を寄せているけれど、この本が出版されてから約一年後に、山口瞳自身も鬼籍に入ってしまった。
目を通していた雑誌(本の雑誌9月号)にこんな記事があった。イギリスのある研究者グループが「インターネットがわれわれの脳に対しておこなっていること」を五年かけて研究した結果が発表された、と。すなわちネット上の情報を「読む」ことは、伝統的な意味での読むという行為とは違って、タイトルからタイトルへ、要約から要約へとブラウズするだけで、むしろ「読まない」ためにやっている、ということだ。*1
そしてぼくが書いた今の一文でさえ、雑誌記事に要約として掲載された文章のさらなる要約だし、原文にあたっているわけでもないので、この要約が正確なのかどうかさえ分からない。だからといって、ぼくはわざわざ原文をあたる気もないし、おそらくこれを読んだあなただってそんなことはしないと思う。でもこの不正確な情報さえ、こうしてまた新しい情報へと変換されたわけで、これはもうちょっとした錬金術というか、マイダス・タッチというか、つまり、まあそういうことだ。
同じ記事中にタフツ大学のマリアン・ウルフという先生のこんな言葉が紹介されている。
「オンラインで読んでいるときは、われわれは情報のデコーダになっているだけである」
「ネットを使うことで編み上げられていく頭の中の回路は、本や印刷物を読むことで編み上げられていく回路とはきっと違うものになるだろう」
伝統的な「読む」という行為は、文字という記号によって筆者の脳から送出された非圧縮の情報や物語を、まず視覚によってスキャンし、言語中枢によって分析する、一種の総合的な行為であるのに対し、オンラインで読む(ブラウズ)行為は、要約というかたちで圧縮された情報や物語を、解凍&復元する(=デコード)する単純作業に過ぎない、ってわけだ。そして、脳で解読するより前に、次なる要約へジャンプ→デコードを延々と繰り返していく。まるで部分的に完成したパーツをスピーディーにはめこんでいくだけの組立仕事のように。
ウィキペディアなんかもそうだけど、ネット上の要約という行為に含まれる一種の親切心というか、尊いボランティア精神みたいなものに感謝しなきゃいけないシチュエーションも多々あるけれど、一切の懐疑心を持たず鵜呑みにするというか、無償でやってくれてることなんだから、ここはひとつ無条件に信じてみようぜ!みたいな、知的自衛権の放棄はいかがなものか、と、常々思っている。
山口瞳は「人から、よく、偏見の持ち主」と云われ、生島治郎からは「(あなたの文章は)偏見の美学」、司馬遼太郎には「命がけの僻論家」と賞され、みずから俳号で「偏軒」と名乗った。現在、ネット上に文章を掲載する場合、もっとも排除すべき要素はまさにその偏見。ぼくもかれこれ十年以上、ネット上に日記(のようなもの)を書き続けているが、無意識にブレーキをかけてしまう表現の多くは、結局「偏見」が色濃い場合だったりする。
ひとの見方や考え方、記憶、思い出は本来、主観的で、偏見に満ちていて、デコボコで、不安定で、絶えず変化していくものだ。それは多くの場合、他人の常識と矛盾するが、偏見はその人が勝手に制定したルールへ基づくものだから「Aが好きならBも好き」にならなくて一向に構わない。
また偏見は時に矛(ほこ)となって誰かを傷つけることもあるけれど、盾となって、自分独自の価値観を守ってくれる。最近ある人生の先輩から、ぼくの文章に対して、厳しく鋭い批評をいただいたのだが、長年にわたって効かせすぎたブレーキによる摩耗が、ぼくのエゴを、きわめて傍観者的な、滑らかで面白みのない、ありきたりなカタチにしてしまったのかもしれない。矛も盾も持たず、丸腰でぼんやりと突っ立っている男の話など、どれほど魅力があるだろうか。
山口瞳や向田邦子のエッセイを読んでいると、その軽妙洒脱な文章の妙味に舌を巻く一方で、読み飛ばすことを許さない、やけにとげとげしい言葉が埋め込まれていることに心を打たれる。もちろん心打たれたからといって、急に自分の表現をそういう方向へいざなっていくことは難しいけれど、その代わりに、なにか新しい表現の「場」みたいなものを模索していかなきゃいけないなと考えたりもしている。もしくは「偏軒」のような別名を持つ可能性とか・・・・・。

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*1:五年かけたわりに・・・・・・というひと言が喉まで出かけたけど、それはひとまず飲み込もう。