そう云えば一昨日、15kmウォーキングのついでに開高健記念館へ立ち寄って、「自筆原稿展」を見てきました。顔立ちそっくりの、丸っこくて骨太の一文字一文字から、作家としての営みや体温のようなものが伝わってくるようで、思わぬ長居をしてしまいました。
エッセイの原稿には推敲や修正の痕跡が少ないんだけど、かたや小説の原稿では細かい言い回しを換え、語尾を直し、言葉を付け足した痕跡がギッシリ。それらをつぶさに観察するだけで、小説を書くということの実際を目で学んでいるような気分。*1
タイプライターがはやくから発達してた外国の作家とちがって、日本人作家の大部分がキーボードで文章を紡ぐようになったのは、ここ20年くらいのことでしょうか。開高さんが亡くなったのは59才(1989年没)なので、もうすこし長く存命だったら、晩年はパソコンで原稿を書いていたかも。とすれば、開高さんはデビューから遺稿までを完全に自筆で終えた、最後の世代の作家なのかもしれないですね。*2
とりわけぼくが愛好している、開高さんのデビュー作『パニック』の生原稿も展示してありました。ひときわ劣化した古い原稿用紙が放っていた、アウラの強烈さといったら!!!
むかし開館したての金沢21世紀美術館で、ひとつの壁にピカソマグリットとウォーホルとダリの絵が並んで展示されてて、おもわずその場でひれ伏したくなったことがありましたが、本物の芸術が持っているアウラというのは、古ぼけた原稿用紙一枚にさえ宿っているのだとぼくは思います。*3
で、原稿のタイトル部分に螺旋で塗りつぶした部分があり、その横に「パニック」と書き直した跡がありました(上にリンクを張った公式サイトでも見られます)。その塗りつぶされた部分には「大いなる幻影」という別のタイトル。解説によれば、それは1937年にフランスで制作され、日本では戦後に公開されたジャン・ルノワール監督、ジャン・ギャバン主演の映画「大いなる幻影」と同名、とのこと。ぼくはこの「大いなる幻影」という映画(映画史上、もっとも重要な映画10本のなかに数える人もいる!)を見たことがないので正確にはわからないけど、『パニック』とのあいだに直接的な類似点はなさそう。つまりこの改題のプロセスが原稿の上に痕跡として残ってなければ、こういう事実を知る人はきわめて少なかったかもしれないですよね。とても些細だけど、生きていく上ではこういう小さなおまけって大事。*4
いつかDVDやテレビで「大いなる幻影」を見るとき、ぼくやあなたは『パニック』のことを思い出すかもしれない(思い出さないかもしれない)。一方で、明日DVDと小説の両方を買ってくる人がいるかもしれない。そんな人をぼくは「単純!」なんて思わない。単純最高! おまけ最高! 単純とおまけでどれだけ景気が浮揚することか!

さて、この『パニック』は爆発的に発生した大量の鼠によって、社会が恐慌に陥るという小説。主人公がすこしでも有効な対策を取ろうと腐心する一方で、事なかれ主義の上司や組織内の政治がそれを邪魔するって話も物語の中に含まれてるんだけど、今、現実にせめぎ合っている「外敵」との闘いで、そんなことが起きてたらイヤだなあ。景気浮揚の対策と国を挙げての防疫というのはまったく相反するベクトルの問題だし、ほんとうにうまくやれるんでしょうかね。滅入るなあ、毎日こんなニュースばっかで。


パニック・裸の王様 (新潮文庫)

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大いなる幻影 [DVD] FRT-172

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*1:帰りにおもわず文房具屋で新しいメモ帳とペンを買ってしまいました。単純! わらわば笑え!

*2:原稿用紙に直接書き加えられていた、担当編集者による印刷指定も興味深かったなあ。指定といえば横尾忠則さんの版下! あれはいつ見ても興奮して、震える・・・。

*3:どこかのグルと信者のように風呂の水まで有り難がったりはしませんが・・・。

*4:ぼくがこのブログをせっせと書いてるのも、そういうおまけをみんなの人生に提供できるのが嬉しいからだし。あらためて云うまでもなく、まったくの無償! もちろんぼくにとっても、メシ食って眠ったら明日にも忘れてしまうような日々のディティールを、こんなかたちで記録していく面白さは誰よりも感じてるんですけど。