過去から今。あらゆる数学者や物理学者が時間や宇宙や生命の秘密へ迫るため、その核心と信じる方向へむかってひたすらに数式を跳躍させてきた。しかしその世界に馴染みのない者にとっては導かれた数式をどれほど眺めても、飛距離や方向を実感として捉えるのは至難の業。
おなじく過去から今。文学の領域では作家たちが思い思いの方向へ小ジャンプや大ジャンプを積み重ねることで、物語の到達地点を徐々に更新してきた。想像と言葉と文体の持つ力を推進力にして。
ぼくにとってリチャード・パワーズとは世界記録を大会のたびに軽々と更新していく天才アスリートと認めながら、いったい彼がどんなルールで試合をしているのか、いまひとつよく掴めない作家のひとりだった。

でも、この本を読み終えた今は違う。ルールはもちろん、選手たちが着ているユニフォームの形や色、グランドを横切っていく風、日差し、スタンドに整然と並んでいる何千脚もの椅子・・・もちろんぼくもそこに座っている・・・まで、わかるようになったのだ。ようやく。
ページをめくるたび、ぼくは彼と共に跳ぶ。最初は補助つきだが怖ろしくて、すぐに目を閉じてしまう。それでも、もう一度もう一度と彼は励ます。やがてぼく一人の力だけで跳べるようになる。最初は薄目で跳んでいたのが、いつか周りを見回す余裕さえできる。踏みきりを失敗しても、何ページか戻って、読み直せばいい。やがて二〇世紀のアメリカで混血児(とその家族)として生きることがどれほどタフなことなのか、五分ほどの短いうたた寝の最中に見た夢のようにハッキリと実感する。物語は一度も訪れたことがない部屋にぼくを誘い、心おきなく寛ぐように促す。物語は鋏になって、ぼくの髪を奇抜なスタイルに切りそろえる。体内に治療法のけっして見つからない病を植え付ける。足下に見たことがない種類の猫がまとわりつく。・・・・・・空に浮かぶ月が二つに増えたどころの騒ぎではない。
───ということで、遅ればせながら『われらが歌う時(上)』『われらが歌う時(下)』を読了。