ぼくがまず考えたのはこういうことです。
右の手にシアワセが載っていて、左手の上にはフシアワセが載っているとします。シアワセやフシアワセは重さもかたちもないので、右手にトマトソースのパスタが載った皿を、左手にはイカスミのパスタの皿を載せていると考えてもらってもいいです。で、どちらの皿のパスタもたえず量が増えたり減ったりする。過去にたいらげた分だけでなく、これから食べる分の量もそこにちゃんと含まれています。
ぼくらはいつまでたっても不慣れなホール係であり、始終変化するパスタの重みにつられて、両手を慌ただしく動かしながらテーブルの間を行ったり来たり。
シアワセが増えれば次にフシアワセが増えること、時に反対の順番で増えること、ときどき大きく減ること、シアワセとフシアワセが本質的には一体であることなんかはもちろん承知のうえで、どうにかそのことに折り合いをつけ、できるかぎり均等にそれが自分の身の上に起こってくれないものかと案じています。そのあいだもぼくら不慣れなホール係一同の両手は忙しく上下しつづけている。一瞬たりとも休みのない、半永久的な不均衡。
と同時にそんな不均衡こそが電車のシートや波間で揺れるボートのように、ベッドよりも時にぐっすりと眠らせてくれる。また、欲望、活力、夢、希望の根源がその辺りにあることも、半永久的な均衡などこの世にはないこともぼくらは知っています。そして永遠に不慣れなホール係のまま、閉店時間まで飽くことなくパスタを運び続けるのです。

それなのに。

求め続けていたものが手に入ってしまったら? さっきまでせわしなく動いていた両手が同じ高さでピタッと止まって、ふたたび動かそうにもまったく自由が効かない状態・・・・・・cul de sacに入り込んでしまったら? そういう完全な均衡と呼ぶべき状態にふとした拍子でなってしまうことがあるんじゃないか、そんなときに望むと望まざるにかかわらず、cul de sacから抜け出す手段として自死を選択してしまった人がいてもおかしくないという気がします。

仮説は永遠に仮説のままで確かめる術はありません。でもひとつ確実にわかってるのは、幸か不幸か、今のぼくはパスタを運ぶホール係というより、シアワセとフシアワセに追っかけられて木の周りをグルグルと回る間抜けた虎みたく、そのうち溶けてバターになっちゃいそうだってことです。木の周りを猛烈ないきおいで回っている虎の姿ってけっこう笑えるし楽しいよね。そして誰かがそのバターでパンケーキを焼いて、おいしく食べてくれたら嬉しいんだけどな。できれば南国の公園かどこかで、おなかを空かせたかわいい女の子が。*1

*1:考えたことをうまくまとめられたか自信はありませんが、できれば今日のうちに書いてしまいたかった。そのきっかけになった出来事がなにかは、すぐにピンとくるだろうし、その出来事だけを指してどうこうってことではないし、ましてや、それについての所感を書いたものではありません。彼が歌謡曲やニューミュージックの歌手のために書いたいくつかの曲、七〇年代の後半から八十年代にかけて出した何枚かのアルバムはとても好きだったし、今でも大好きです。