そういえばさっき、マルコム・マクラレンの訃報に伴って、かつての恋人だったヴィヴィアン・ウエストウッドが出したコメント(「わたしたちがまだ若くて、わたしがマルコムと恋に落ちたときには、彼のことを美しいと思っていたし、今でも美しい人だと思っています」)を、この記事で読みました。
ちょうどこの『最終目的地(The City of Your Final Destination)』の中にこのコメントと重なって響く部分があったので、ちょっと長いけど引用してみます。

昔はわしにもきみのような魅力があった。今となっては奇妙に思うだろうがね。だが、魅力は歳とともに傷む。チーズや美しさのようにな。少なくとも、わしの場合はそうだった。なかには、かろうじてどちらか片方を保つのもいるし、まれには両方を維持する者もいる。だが、そのようなほうびには代償がつきものだということは、いずれきみにもわかるだろう。無私の心、地位の喪失、禁欲、それが代償だ。歳をとっても美しくて魅力的なのは、いささか哀れだとわしは思うのだよ。少なくともわしにとっては、能力の無駄遣いであるように、ごく控えめに言えば、能力のまちがった使い方であるように思われる。というのも、魅力と美しさは、若いときの方が価値がある。老いさらばえては、そんなものがあってもなにも手に入れられはしない。だからこそ、わしは老醜を気にしないのさ。

これは亡くなった作家の兄であるアダムが、主人公である若者へ語る言葉として書かれているのですが、アダムは若い恋人が、老人である自分を見捨てずに尽くし、愛してくれていることに感謝しつつも、それを互いの不幸と見做して、自分のもとから突き放そうとします。

晩年(昨年秋)の写真からの印象では、マルコムは年相応のスタイルを選んだように見えます。かたやヴィヴィアンは……ぼくにはなんとも評価し難いのですが、好意的に見れば、これもある意味で<老醜を気にしない>っていうことなのかなあ、とも思えます。マルコムの最期を看取ったのも37歳の恋人でしたが、こどもほど年齢の離れた恋人に看取られて逝くというのは、憧れるべき男の甲斐性なのか、それともアダムの言うように能力の無駄遣いなのでしょうか。未熟なぼくにはまだわかりません。