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片岡義男さんが1991年に出版した本(水平線のファイル・ボックス〈読書編〉)の中で、植草甚一にまつわる、あるエピソードを紹介していて、それがとてもよかった。
創刊したばかりの『ワンダーランド』誌のために彼らが交流を密にしていた、七〇年代のはじめ頃のこと。植草さんが当時暮らしていた経堂のお宅へ片岡さんが訪れ、雑談をしていたところ、傍らにあったパーカー社製ボールペンの箱を植草さんが手に取り、「これは、どういう意味なのか、わかる?」と、質問したそうだ。
ボールペンの箱には、BIG RED WRITES AGAINというコピーが印刷されていた。植草さんはその文句の意味を、日系二世の父を持ち、英語に堪能な片岡さんなら、と尋ねられたのだが、片岡さんはそのボールペンが、BIG REDという愛称で呼ばれていたパーカー万年筆を復刻したデザインになっていて、「あのビッグ・レッドが再び登場」というような意味をこめているのではないか、と説明した。たまたま片岡さんは、父親からかつて万年筆のビッグ・レッドを愛用していた話を聞いていて、植草さんの質問に即答することが出来たのだ。
植草さんは心から解放されたような笑顔を浮かべ、「それでわかりました。そういう話を聞くと、わかるんです。なぜアゲインという言葉がそこに使ってあるのか、わかります」と、つぶやいたそうだ。
片岡さんはそんな植草さんの表情を回想しながら、こうつづけて書いている。
「晩年の植草さんは、ふと見かけて気にいり、したがって手に入れたボールペンの箱に印刷してある文句のひと言に対して、このような好奇心を抱き続けること出来る人だった。ちょっと面白くはあっても、けっして特別なものではないボールペンの箱に、誰もがわかって当然のように印刷してある簡単な文句の意味が的確に理解出来ないことを、植草さんは、満たされない好奇心の対象として、いつも心の片隅でもどかしく不思議に思っていたのだ」
植草さんは、通俗的な功名心や経済的な達成とは関係ないところで、死ぬまで「知的な探検ごっこ」を持続させた。そんな彼に対する深い尊敬の念と、世代を超えた大きな共感をこめて、片岡さんはこの文章を綴ったのだと思う。
知識は自分が求めてない時でも、勝手に手元へやってきたりするものだ。今の自分には必要のない"ぜい肉"だと切り捨てたり、忘れ去ってしまうことはとても簡単だし、そういうものにまったく囚われず生きるのも、それはそれでありだと思う。今ではそういう傾向を<検索>が拍車をかけている。
ぼくは自分がやせ衰えてしまうことがとても怖い。と同時に、自分がこの先、やせ衰えて、くたばるようなところは想像出来ない。もちろん身動きが取れないくらい太りすぎるのは不健康だ。日々、適度な運動をこなすことで、知識というエネルギーをうまく消費したり、蓄えたりしながら、健康を保ちたいと思っている。カラダの中から脂肪を追い出すために金や労力を惜しまない人は多いけれど、アタマの中の脂肪分はなにもしなければしないほどアッサリと落ちていく。
過食でも少食でも元気に生きてる人はたくさんいる。腹ごなしのジョギング中に死ぬ人だっている。中国には庭土を主食にしてる人がいるそうだ。知識欲や好奇心は食欲にとても似ていると思う。
アナログで音楽を買う量が減った分、ぼくは以前よりたくさんの本を買うようになった。これは意識的にではなく、自然とそうなったと思っているし、友だちにレコード屋は多いけれど、この事に対してなんのうしろめたさも感じていない(CDやデータで手に入れている音楽の総量は減るよりむしろ増えているくらいだ)。食の好みだって年齢と共に変わっているし、いちどきにおいしく食べられる量は自ずと限られてるから、これもしかたがないことと割り切っている。*1
それでも、たいていの人が見過ごしてしまうなにげないコピーひとつにさえ、新しい好奇心のドアを見つけることは、純粋で、尊い感性だとぼくは思う。それは世代や考え方の違いに関係なく、聖火のように人間が昔からずっと守ってきたもののひとつだろう。だからこそ、植草さん本人ではなく、片岡さんがこの些細な出来事を何十年も忘れず、ぼくたちに紹介してくれたことが、とてもうれしく感じてしまうのだ。
*1:懐具合とは関係ないと思う。もうちょっとぼくに稼ぎがあれば、話は変わってくるだろうけど、まあ、これは別の問題。